文字は音声言語をうつす(移す・写す)手段であるとの説明がしばしばなされる。この説明は、文字で表記された文字言語が、音声で表現された音声言語に対応するという考え方に基づいている。しかしながら、音声言語と文字言語という二項対立だけで文字言語を見ていると、実のところ文字表記の現実のあり方が見えてこないのではないかと私は感じていた。また、『言語学大辞典〈第6巻〉術語編』
の「文字」(pp.1340-1344)や「文字論」(pp.1346-1348)の項目では、表音と表語の対立が議論の中心にあり、「表記そのもの」に対する議論が希薄であるように感じられていた。
それに対して本書は、「表記そのもの」=「表記体系」を議論の中心に据えた本である。
原著は全7章からなる。それぞれの章の本文は「全体のレビュー+本文+まとめ」という構成を意識して書かれている。しかも、本文の内容をより深く理解するための問題が随所に設けられている。また、章末には「課題+問題のヒント+文献紹介」が付いており、学習を発展させたい人に配慮がなされている。このように本書は読者や学習者に親切な体裁になっている。
解説の文章も実に分かりやすい。それでいて、内容のレヴェルが低いわけではなく、むしろ最新の研究成果がふんだんに取り入れられた高水準のものになっている。さらに、学術的なものから一般の方のものまでwebページが幾つか紹介されているので、様々な角度から本書の情報を補足することができる。本書は表記体系を学ぶための最良の教科書だと思う。
このような良書が日本語で読めるのは、なんともありがたい。翻訳の文章も読みやすく、正確である。また、巻末の事項索引には英語表記も添えられているので、原著との照応が容易である。
ただ、訳者まえがきにあるように、全訳ではないのが残念なところである。原著のChapter 6 Historical changes in the English writing systemのすべてと、Chapter 4(翻訳 第4章)とChapter 7(翻訳 第6章)の一部が割愛されている。
原著のChapter 4と7の正確な割愛箇所については訳者まえがきで明らかにされていないが、私が見たところ、①Chapter 4: p.111の図の一部、②Chapter 4: p.112以降の解説、③Chapter 7: p.120以降の解説とTask 6、が割愛されているようである(細かく見れば、他にもあるかもしれない)。
なお、これは訳者まえがきに書かれていないことだが、原著にあるIPA Transcription of English phonemes(p.215)と、巻末の参考文献の一部も割愛されている。割愛されている参考文献は以下の通りである。
Bernard,M., et al. (2001)
Coulmas, F. (1996)
Dixon, C. (2001)
Jackson, D. (1981)
Jacobson, S. (1966)
Jaquith, J.R. (1976)
Johnson, E. (1905)
Pound, L. (1923)
Pound, L. (1926)
Praninskas, J. (1968)
Tinker, M. (1963)
Wijk, A. (1966)
参考文献の割愛は本文の割愛によって生じたものだと思われるが、Coulmas, F. (1996) The Blackwell Encyclopedia of Writing Systems. Oxford: Blackwell. は和訳でも引用されているので、これが割愛されているのは単純なミスであろう。
河野六郎は英語の書記体系について「英語のスペリングが表音的に言ってはなはだ不合理なものであることは有名である・・・表音としてはまったく滅茶苦茶である」(『文字論』
)と述べている。それに対して本書は「英語の綴りが、文字と音との間で非論理的な対応関係しか持っていないと批判するのは間違っている。なぜなら、そのような批判は綴りに含まれている他の多くの要因を考慮にいれていないからである」(P.137)と言い切っている。英語の綴りに対するこのような見解の違いは、文字を音声のうつしとみるか、あるいは文字と音声の間に第三の中間項を想定するのかの違いであるように思われる。本書は表音文字を使用する英語の文字体系を題材にしたものではあるが、表音文字と表語文字の二項対立や音声と文字の二項対立を抑揚したところで達成された文字論の良書だと思う。
[目次]
翻訳版へのまえがき/訳者まえがき
第1章 「書く」ということ
第2章 英語の話し言葉と書き言葉:その多面性
第3章 英語の綴りへのアプローチ
第4章 句読法と植字術
第5章 英語の書記体系を身につける
第6章 英語書記体系におけるバリエーション
参考文献/人名索引/事項索引